高橋正吾さんの到達点

高橋正吾さんの到達点

昨年の12月、雪の中の鳴子温泉を訪れ、
鳴子こけし工人の高橋正吾さんとお話をしてきました。
今正吾さんは体調が思わしくないということもあり、
それが気がかりでお会いしたいという気持ちも強くありました。

正吾さん宅に着き、軽くあいさつを交わし、暖かいこたつに入れていただき、
体調のことを訊ねると、
「身体に悪いところがあるということは、
まだ私も生きているということですな。」と笑っています。
年齢も年齢なので、心配な気持ちは変わりませんが、
正吾さんのいつものこの調子を聞き、
少しほっとしました。
武蔵さんの癖、高亀の玩具と柳宗理、紅型、僕の絵、
そして正吾さんのこけしと正吾さん自身のことなど、
様々なことを話し、
気がつくと3時間ほど経過し、日も暮れ始めています。
「体調もいまいちだったもので、
こけしは一月程作っていませんでしたが、
佐々木さんがくるというので、久しぶりに作ってみたんです。」
と言って立ち上がり、8寸のこけしを持ってきて下さいました。
「久しぶりに轆轤の前に立ってみましたが、
やはり良いものですな。
ああ、自分ははまだ作りたいんだなあと改めて思いましたよ。
落ち着くんです。
気に入っていただけたなら
このこけし、持って帰って下さい。」と。
武蔵でも、武男でも、辰吉でも、乗太郎でも、なんの型でもありません。
これは正吾さん自身のこけしです。
どことなくご本人の顔に似ています。
僕も何度かお願いして、
武蔵さんの古いこけしの写しを作っていただいていますが、
それらのどのこけしも最高の出来で、紛れもなく正吾さんのこけしです。
ただ今回のこけしから感じられるこの空気には
格別のものがあります。
一筆一筆を愛おしみながら描いている様子が、
強烈に伝わってくるのです。
にも関わらず押し付けがましい所がなく、
暖かく、優しく、品があります。
そして何より普通です。
可愛さが全面に出ていたり、変わっていたり、珍しいこけしにも、良いものはありますが、
この普通のこけしの美に気付けるかどうかが重要で、
それを見逃してしまうと、
本質は何ひとつ見えてこないような気がするのです。

正吾さんは会話の中で、
「若い頃はどこか尖っている自分もいて、
なかなか思うようにこけしは出来ませんでしたが、
武蔵さんのこけしときちんと向き合ってみると、
ちっとも肩肘を張っていないことに気付いて、驚きました。
作為もなく、自然なんですな。
それからは自分の主張のようなものを気にしなくなって、
だいぶ肩の力も抜けてきたんです。
そこが自分のこけしの出発点ではないかなと思っておるんです。」
と。
今回いただいたこけしは、正吾さんのひとつの到達点ではないかと思います。
なんだかこのこけしを見ていると泣けくるのです。