廃絶と復活

廃絶と復活

郷土玩具の世界と、
切っても切れないものになってしまった「廃絶」という言葉。
それはとても悲しく、寂しいものです。
廃絶は、
続いてきた歴史への終止符です。
「もう自分がやめれば、終わりですね。」
そんな言葉を今まで幾度となく聞いてきました。
重い言葉です。

尾崎人形の作り手である高柳政廣さんには弟子がいません。
先日開催されたトークイベントの中でも高柳さんは
「自分で終わり」と何度も口にしていました。
尾崎人形は佐賀県の神埼町尾崎西分地区の人間でないと
継ぐことができません。
そこの土地の人間でなければ、
郷土を感じる人形は作ることができないという考えからでしょう。
とはいえ、
あまりにも地元、郷土を大切にしすぎて閉鎖的になり、
どんどん先細りしていくようではいけません。
誰にでも開かれたものであるべきです。
だからといって外の人間が
伝統を残そう、復活させようと言うことも、
あまり良いものじゃないなあという気持ちもあります。
その土地の郷土も精神もないスカスカの状態で、
表面的な部分だけが復活するのであれば、
廃絶してしまった方がいい。
とても寂しいことですが、
その方が郷土を守ることができるように思うのです。
正しいか正しくないかは別として、
ここのところ、そんなことを悶々と考えています。

郷土玩具という言葉が産まれたのは、早くても明治時代。
その言葉がまだなかった頃は、
玩具は本筋の仕事の合間に作られるもので、
地位は低く、伝統も何もなく、
勝手に作られ、勝手に廃絶していました。
誰もその存在を特別に思っていなかったのでしょう。
ただ、
その時代に生きる人達の郷土性は
今の時代に生きる人達のそれよりも強く、
強烈に滲み出ています。
そしてそこには人間の美が宿っているように思うのです。
今の時代に作られたものでも、そのような物を見ると、
心が震えます。
それ以外のものには、
ただのイミテーションでしかないような気さえします。

写真は三春張子の橋本広司さんの手元。
先日訪問した際、首人形に絵付けをしていただいたのですが、
こけしの面描との類似性に、
深く長い郷土の歴史を見ました。
ここには本質的な郷土性と人間の美が存在し続けています。